つれないコイビト

「毎日毎日、彼氏がしつこくってさあ」
そんな会話がふと耳に入ったのは休憩がてらのカフェの席。
さわさわした喧騒の中でその言葉が耳に入ったのがなぜなのか、考える前に会話の続きが聞こえてくる。
「体目当てなのかって思っちゃうよね~」
「好きだからしたい、とか都合いいこと言う~」
「わかる、求められてるのが嬉しい、って時もあるけどさ~、あんまりしつこいとゲンナリしてする気なくなるわ」
喉の奥を滑り落ちていったコーヒーは熱くて苦い。いつもは美味しいと感じるそれがなぜか不快で、僕は更に水を飲んで喉にへばりつく不快感を流し込んだ。

わかってはいるつもりだ。
そう、自分自身に確認をする。僕と恋人関係であるところの彼が、あまりにも複雑な事情ゆえに肉体的な接触にいくらか、難があることくらい、いくら僕だってわかってる。
はじめて会った時から、比較的まともに――否、心の底から真剣に向き合ってきた相手だったから、さすがにその事情やら内心やらを、全くわかってないわけじゃない。――と、思う。
今ひとつ言い切れないのは、そうやって心を通わせたと思える相手が片手の指ほどにも満たない、己の人付き合いの下手さゆえだ。友達が多いほうがいいなんて思ってはないけれど、こういう時のサンプルケースがとかく少ないのは困りものだ。
もやもやと考えながら歩いていたせいで何度か通行人とぶつかりそうになりながら、事務所へ戻る。エレベーターに乗っている間、どうしよう――とどうしようもない思考がもやもやの大部分を覆っていた。
どうしようもこうしようもない。
僕はただ恋人に触れてほしくて、その一心で毎日(と言って差し支えないほど)彼に、僕の恋人にアプローチしているのだけれど。
彼がそのアプローチに積極的に応えてくれない、応えられないその心情が全く理解できないほど唐変木なつもりはない。ない――と思う。
彼にとっては僕の存在がとてつもなく大きくて、色んな理由や感情を孕んでいるためにそうなっていることくらい分かっている。分かってるよな?大丈夫だよね?脳内で疑問符を浮かべても誰も答えてくれやしない。当たり前だけど。
昨日も、少しでも触れたくてそっとその頬に触れたら、あっという間に彼は――モモは真っ赤になってしまった。中学生男子か?
だいたい、まだ何もしたことがないならともかく、押しに押して押し切って、何度か抱いてもらったことはある。だからそろそろ慣れてくれても良いんじゃないのか。なんだって毎回「初夜です」みたいな顔してるんだあいつは。こっちがどれだけ、

「あ、おかえりなさい」
開いたドアの先の廊下にいたおかりんがこっちを見つけて声をかけてくれて、ともすれば罵倒になりそうだった思考はストップした。
「ただいま。モモは?」
「まだですよ。多分あと三十分くらいで戻るんじゃないかな」
腕時計を確認しておかりんが言う。
「そっか」
顔を見たいような見たくないような、見たとして何を言いたいのかよくわからないのでちょっとホッとした。
だって僕はモモの恋人なんだから、ただ触れたいと思っていたけどそれってどうなんだろう。淫乱だと思われてたりしない? 世間一般的にどのくらいの頻度でとかあるのかな。今更すぎることに気づいた僕はあらためて、僕の恋人について思いを馳せる。健康に問題はないはずだし精神的に不能とかでもない。職業以外はごく一般的な青年のはずだし、僕の事を好いてくれてるはず。日本一、世界一、銀河一、宇宙一好かれてる自信がある。――だよね? だからだれに聞いてるんだろう、ごく僅かな動揺が全身をじわじわと苛んでいる。
「何か百くんに伝えることありました?」
「いや。なにも」
伝えたいこと、あった気がするけどなんだっけ。わからない。ただ好きだって伝えたいだけなのに、僕の恋人はつれない。
でもいくら好きだからって毎日毎日迫られたら確かに鬱陶しくなるかもしれない。ないとは思うけど、僕のことが嫌になってしまうかもしれない。それは困るなと事務所のソファで腕を組んで考えた。しばらくそっとしておいてあげたほうがいいのかも。そしたらモモだって健康な成人男性なんだから、僕とどうこうしたいって気持ちも湧き上がってくるかもしれない。そうだ、きっとそれがいい。
なんだかものすごく短絡的な結論だったけれど、その時の僕はそれがいいと結論づけた。モモだって色々悩んだり困ったりしながらも僕と向き合ってくれてるんだから。少し我慢するくらい、僕にだってできるさ。
少し後に、その覚悟がわりと無謀だったことを思い知るなんてその時の僕は少しも想像していなかった。

違和感とか些細な変化なんてレベルじゃなくて、急にそれは起こった。起こったというか起こらなくなったというか。
毎日毎日、オレにあの手この手で迫ってきていたユキがある日を境に突然、全くそういう仕草を見せなくなった。
別に、オレだって嫌だから拒否していたわけじゃなくて、むしろ気持ち的には嬉しすぎて頭がパニックになるんだ、ってことを何度も伝えてきたと思う。理性が飛んでしまうことが怖いんだって、できるだけ冷静に、分かりやすく、ユキにも伝わるように幾重にも言葉を重ねたつもりだった。理性が飛んでしまった時の行動は著しく視野が狭くなって短絡的で直情的だっていう自覚がありすぎるほどにあったオレには、ユキの事が好きで、好きという感情が嵐みたいに強すぎて、その嵐が自分を飲み込んでしまった時どうなるか想像がつかなかった。
何度か理性がなくなるほどの感情に支配された時の自分を顧みても、あまり良い方向に転ぶとは思えなくて、心配だし不安だった。その気持ちをユキには洗いざらい、素直に曝け出して伝えたのに、ユキときたら「どうなってもいい」なんてある種の殺し文句みたいなことを言う。
どうなってもいいはずない。万が一ユキがどうなってもいいと思ったとしても、オレとしてはよくない。全然良くないのだ。
それでもユキが望むことをすげなく扱うことなんてできるはずはなくて、押し切られて何度か、なんとか自分を抑え込みながら、行為をするにはした。おそらくその数回は神経が焼ききれてしまっていて、断片的にしか記憶に残っていない。酷いことをしていなければいいのだけど、ユキは「すごく嬉しかった」って顔をほころばせるだけで詳細については何も話してくれなかった。聞くのも野暮なことだから、どうなっていたか聞けてはいないのだ。
ユキがオレを求めてくれることはすごくすごく嬉しいし、同じように、いや多分百万倍くらいオレの方がユキを求めてる。あまりにも大きすぎて怖いから、どうしても躊躇してしまう。それでユキが不満そうにしていることはわかっていたけど、自分の感情を自分でも操ることができずに、なんとかできる範囲でしか応えてあげられなかった。
仕事がとにかく忙しいのもあってなかなか二人でゆっくりできることはなかったけど、ユキは会うたび、相当パブリックな場所でない限りはオレに何かしらアプローチをしてくれた。嬉しいけれど上手く応えられなくて、後で悲しくなったりもする。滝行でもしたら冷静になれるかな、ちょっとできるところ調べてみようかなとか思っていたところ。ちょうどそんな時だったのだ。

仕事を終えて帰宅して、玄関の扉を閉めたら知らずため息がこぼれた。
ユキからのアプローチがぱったりと止んだことを、今更寂しいと感じるなんて身勝手極まりない。充分に応えられなかった恋人失格のくせに、と自分自身に毒づく。これはやっぱり滝行か坐禅か、とにかく精神修行が必要なんじゃないだろうか。心頭滅却すれば火もまた涼しっていうし。
そのあたりに荷物をぽいぽいと投げ捨て、すごく疲れた気分でソファに転がった。ソファが洗っていない洗濯物置き場と化してめちゃくちゃになっていたので足元にぐいぐいと落とす。やばい、そろそろ洗濯しないと。
もう何日、触れてもらっていないだろう。そのきれいな指先がどこかしらに触れるたびに、興奮と喜びと恐怖でわけがわからなくなっていたけれど、それは確かに恋人としての愛しいふれあいだったのだ。そんなことを今さら思い知るなんて。

話は少し前に遡る。

僕は反省した。恋人の繊細な気持ちを慮ることをせず、己の感情に任せて行動してしまっていたことを恥じて、改めようと決めた。
触れるまいと決めた。いや別に、触れてもいいんだけど。恋人になるまえだってボディタッチは多かったし、それを嫌がられたことなんてない。
それでも決めたことなのだから、なるべく、意識して触らないように。
一日、二日と時は過ぎていった。触れたい。モモの体に。かわいい丸い頬も、スポーツをやっている人間らしくごつごつして格好いい手も。触ると筋肉の主張を感じられる体も、全部愛おしいものだから、我慢するのは大変だ。
それでもなんとかかんとか抑えておけたのは、今までの行為に対する反省の気持ちが強かったからだ。
けれど、それもいずれ限界を迎えた。
それまでは、ほんの少しのふれあいで、なんとかモモへの気持ちを押し留めていたから。それをなくしたことで、僕の感情の行き場は失われてしまった。行き場をなくした熱は内部でどんどんと温度を上げていった。自分が寂しがりだっていうことも、僕はすっかり忘れてしまっていた。モモに触れないということはモモに埋めてもらう、モモにしか埋められない寂しさがどんどん溢れ出してしまうということだったのだ。そのあたりの先行きを見定められずに見切り発車で自分の行動を決めたあたり、きっと焦りや、不安があったんだろう。そんな、第三者から見ればわかりそうなことに気づいた頃にはもう手遅れだった。

モモが欲しくて、モモに触れたくて、どうしようもなくなっている。
それでも一度決めたことで、せっかく少しは続けられたのだ。モモに淫乱だって思われたくないし。というか僕は別に淫乱じゃないし。モモが自分から触れたいと思うまで耐えて見せる。それくらいできなくてモモの恋人だなんて名乗れるものか。
なけなしの意地を握りしめるようにそう誓ったものの、曲が作れない時みたいに苦しくて切なくて、昔こういう気持ちの時にどこの誰だかもよくわからない女の子で気分転換してたことなんかを思い出してしまった。
自分がこういう身になってよくわかるけれど、とんでもない悪人だ。もしモモがあの時の僕みたいに適当に僕を気分転換に利用してその後放り出したら、その後死んでしまうかもしれない。誰か僕のせいで死んでいたらどうしよう、なんて、思考がどんどん落ち込んでいく。
気分転換、誰かに頼らずに、この感情をなんとかしなくては。曲が作れないで苦しい時はモモが気を遣ってくれたりして、それがすごく嬉しくて助かるけど、モモに抱いてもらえなくて辛い感情をモモに打ち明けるわけにはいかない。

自室でぼんやりと天井を眺めながら、なんとかやり過ごす方法を模索する。
今の僕にはモモが必要だ。幻でも夢でもいい。一時的なもので構わない。なにか別のことをしようにも集中できない。とにかくモモが不足している。
仕方がない、スマホを取り出してモモを撮影した写真を見る。入っている写真はおおよそプライベートなもので、僕のスマホ以外には入っていないモモの姿だ。
スマホの画面で明るく光るモモの笑顔を見ていると少しだけ心が慰められる気がした。僕のモモ。僕だけのモモ。けれど匂いもないし温かさも感じられない。仕方がない、これは映像だから――。
「あ」
思いついておもむろに立ち上がり、早足にリビングへ向かう。置きっぱなしにされていたモモのパーカーを拾い上げて、顔を埋める。明かりがついてなくて薄暗い部屋の中でパーカーに顔を埋めている二十六歳の男性だいぶ怖いな、と片隅で思いながら息を吸い込むと、モモの匂いがして幸せな気持ちが広がった。
部屋に点々と落ちているモモの私物を拾っては匂いを求めて鼻を近づける。スマホよりは匂いはするけど、僕の部屋だからモモの匂いより僕の匂いの方がもちろん強かった。もっとしっかりモモの幻を感じたい。洗濯物とか残ってないかなと思ったけど今朝全部洗って干したところだった。
洗濯物か。モモの家にならよく積み重なってるんだけどな。と思い出したところで、僕は思わずぽんと手を打った。

少し後、勝手知ったるという顔をしながら、僕はモモの部屋に上がり込んでモモのベッドに滑り込んでいた。行動としては恋人になる前からよくやっていることなので特に抵抗感はない。
相変わらずモモは整理整頓が苦手で、ベッドも毎日ぐちゃぐちゃのままのようだったけど、今は好都合だ。布団をかぶるとすごくモモの匂いがして、モモに抱きしめられてる錯覚を覚えるほどだった。これはいいな。すごく安心するし幸福感がすごい。
確か今日は遅くなる予定だったから、しばらくベッドを使わせてもらってもいいだろう。帰ってきたら僕が寝てても起こしてくれるはず。
「もも……」
ベッドに話しかけた。ベッドはベッドなので返事してくれないけど、とりあえず満足する。モモの匂いに包まれてもぞもぞしていると、ふわふわしていい気持ちになってきたので目を閉じる。都合のいいことに脱ぎっぱなしの寝巻きがシーツの隙間にあったからそれをぎゅっと抱きしめた。
そういえばと思い出しスマホを取り出す。モモの写真を表示しようとして、ふと数日前のことが脳裏によぎった。

「モモ、名前呼んで」
「? ユキ?」
「そのまま100回連続で呼んで」
「100回!? なんで…っていうか、なんでスマホ構えてるの」
「モモが呼んでくれるの録音しとこうと思って」
「いいけど……なんか駆け足でおざなりになったらやだなあ……収録終わってからでいい?」
「いいよ。やった」

あまりにも身体的接触が足りてなさすぎて、せめてと思ってモモが呼んでくれる声を録音しようと思い立って、その日のうちに100回呼んでもらった。1時間くらいかかったけど、僕はすごくご機嫌だった。
録音データを取り出す。再生を押すと少し照れた感じのモモの声が聞こえてきた。ユキ、ユキ。ユーキ、ゆき~。一回ごとにちょっとずつ変えてくれてる。100回もあるのに、1回1回違う呼び方だった。甘かったり切なかったり、嬉しかったりちょっと苦しかったり。すごいこれ、すごくすごいな。耳元にスマホを押し当てる。モモの元気な声が聞こえる。シーツからモモの匂いがする。いつもモモの家にいる時の時計の音が聞こえてくる。うっとり目を閉じていると、耳元から少し色っぽい声が聞こえてきた。こんなの録ったっけ、と思ったけど僕は頼むだけ頼んでおいて、収録の後スタッフに呼び止められて足止めされてしまったからスマホだけ渡したんだった。忙しくてすっかり聞くのを忘れていたから、これが初めてだったんだ。
『ユキ………』
吐息混じりの切なくて甘い声。艶めいていて、いつものモモの声より少し低い。あっと思い出す。何度か無理やり抱いてもらったとき、聞いた声に似ている、気がする。
「………っ……」
匂いと、音に包まれて、ぞくぞくと何かが背を駆け上った。
『ユキ。…ユキ。ユキ……』
なんだってそんな連続でえっちな声出してるんだお前は!
スマホを握りつぶしそうになったけれど僕の握力じゃそんなゴリラみたいな真似は不可能だ。
「モモ……」
録音でも、名前を呼ばれてるんだから呼び返したっていいよね。いいはず。
『ユキ』
体が熱くなっていく。なんだかもう抑えられそうにない。モモに見つかったらなんて言い訳しよう。これは淫乱と言われても仕方ないかもしれない。嫌われたくないな。嫌わないでいてくれるといいな。大丈夫だと思う。わからないけど。
『…ユキ。』
再生を止めたほうがいいなと思うのに、指はスマホから離れて、自分の服の隙間をそうっと通って中に入っていった。

疲れすぎたせいかすぐに気が付かなかった。ソファに転がって数分経った頃、少し離れた場所から気配を感じて、自分以外に誰かいる!……と一瞬緊張したけど、気配がなんだかユキっぽかった。いつの間に来てたのかな。玄関に靴あったっけ。疲れててそこらへんもよく見ていなかった。
なんだか物音と、ユキの声がぼそぼそ聞こえてる気がする。寝室の方からだなと思ってソファからどっこいしょと立ち上がる。寝てるのかな。でも寝てたら喋らないだろうし、寝言かな。どっちにしろいるなら顔を見たいし、ただいまって言いたい。
「……モモ、…モモ」
近づいていくとはっきり声が聞き取れた。なんかよくわからないけど呼ばれてる。居ることを知ってるんだろうか、それにしてはなんだか様子がおかしい、ような。
「あっ、モモ……っ」
!!!!?
待って。待って。待って!?
更に追いかけるように聞こえてきた声はどう考えても、情事の最中としか思えないような声だった。どういうことなのか理解できず軽くパニックになる。もしかしてオレ以外にモモって奴が居る!?とか思ったけど冷静に考えるとそんなわけがなかった。少し身を乗り出せばベッドが見えるであろう位置で固まってしまったオレの耳に届いたのは、
『……ユキ』
オレ自身の声。
「……ももっ……好き」
完全に混乱状態で立ち尽くすオレをよそに、ユキは一人で盛り上がっていた。後から思い返すとそうなんだけど、その瞬間はもうパニック真っ最中でただ固まるだけのオレだった。
少し先の空間から聞こえる息遣い。いつもより少し高くて甘いユキの声が、ねだるようにオレの名前を呼んでる。上がる息の合間を縫うように。その間隙を突くようにオレの声が、録音された声が聞こえてくる。これはあれだ、この間ユキが名前を呼んでるのを録音したい、って言ってたやつだ。パニックで大混乱に陥る脳内で、なんとかそこだけを探り当てる。
ユキは――今、オレのいる少し先の、オレの寝室のオレのベッドで、オレの声を聴きながら。
繰り返し呼ぶ声が聞こえる。切ない声だった。オレはちゃんとユキの恋人のはずなのに、ユキは一人で自分を慰めている。寂しがりやのユキ。
全部オレのせいだ。オレが、ちゃんと向き合わなかったから。ユキはオレに気を遣って。優しいから。オレのことを考えてくれて。
こみ上げてきた熱で涙が出そうになった。いくらなんでも最低だ。こんな最低な恋人いないだろうってくらい最低だ。ちゃんと向き合わなきゃいけない。滝行とか呑気なこと言ってる場合じゃない。辛いのは、悲しい思いをさせてるのは、今、すぐそこにいるユキだ。
踏み込んで行こうと思ってギリギリで足を止める。今行っていいのか? ものすごく恥ずかしくないだろうか。オレもユキも。気まずすぎるんじゃないか。ユキを困らせたくなくて、一瞬躊躇してしまう。そのせいで、足元にあった何かを蹴飛ばしたことに気づかなかった。ガンっと大きい音が部屋に響いて、ぶわりと全身が総毛立つ。しまった。

モモ、モモ。モモのにおい。モモのこえ。目を閉じているとモモに抱かれているみたいで嬉しかった。一生懸命、真っ赤になって、精神的にギリギリでも僕を抱いてくれようとするモモ。いままで、モモは僕を3回抱いてくれた。その3回のこと、ひとつも忘れたことがない。色んなことをよく忘れるけど、大好きな人に抱いてもらった記憶を簡単に手放すほど愚かじゃない。
触れてくれた指先も、あたたかい肌も、きれいな瞳も、呆れるほど丁寧に僕の体を愛撫してくれた舌も、全部、ぜんぶ覚えている。大切に忘れないようにしまっておいた記憶をゆっくり取り出して、自分の指に載せてみる。それは残念ながらモモの指じゃなかったけど、それでもすごく気持ちよかった。
これはいいかもしれない。これならしばらくは我慢ができそう。今度、モモの顔の写真もたくさん撮らせてもらおう。指の写真もほしいな。頭の片隅でそんなことを考えながら、呼んでくれる声と、匂いと、取り出した思い出に浸って。溺れて。甘い熱に、ただ身を委ねて――。

――ガン!

ガン?
一拍置いて、ハッと気がつく。モモが帰ってきたんだ。慌てて身を起こして布団を跳ね除けて、そして。
少し離れた場所に立って、こっちを見ているモモと、ばっちり目があった。

何と言っていいのかわからない、それなりに気まずい間がたっぷりとあって、それから二人はおかえりとただいまを言って、ベッドに座り直した。
「……怒った?」
「なんで!? 怒ってなんか……」
「僕のこと、淫乱だと思った?」
「いんっ……!?」
突然のワードに思わず喉が詰まった。話のつながりがわからない。怒ってなんかいないし、ユキのことを淫乱だなんて思ったことこれまで一度もないしこれから先も永遠にないと思う。
「勝手にモモのベッド使ってオナニーしてたんだよ」
「もうちょっとオブラートに包んでユキ!」
恥ずかしくて思わず大声が出てしまって、ユキはキョトンとオレの顔を眺める。
いや、恥ずかしいとか無理だとか、滝行だとかもうそういうのはやめよう。深く息を吐いて吸い込む。恥ずかしさなんかどうでもいい。オレがユキに寂しい、悲しい想いをさせてしまったことが、何より許せなかった。
「オレが……寂しい思い、させたから」
「大丈夫。我慢できるよ」
「ユキ……! 我慢なんてしないで。させたくない。オレが、悪かったです」
「そう……? でも、モモは悪くないでしょう」
そうっとユキの手が伸びてくる。身を引っ込めたいのを我慢して、そのままユキの手を受け入れる。頬に、わずかに触れる指先。どこか恐る恐るといった動作だった。
「オレの、わがままで。ユキに我慢させちゃった。悲しい顔…寂しい思いさせちゃった」
そっとユキの指に手を重ねる。少し冷たい。ユキと比べると、オレの手のほうが、いつも少しだけ温かい。
「別に、わがままじゃないだろ……恋人だって、イエス・ノーを表明する権利はあるんだから」
「そうだけど……そうじゃなくって……」
もういい。言葉をいくら尽くしても、ユキの寂しさを放っておいたのはオレだし、その寂しさを埋められる行動は一つしかない。そんなことわかっているから、ユキの指先をギュッと握りしめて、そのまま引き寄せる。
「おっと……」
着衣が絶妙に乱れたままのユキが胸元に倒れ込んでくる。首筋や腹部が少し露出していて、どんなに覚悟していようとも心臓は全力で走り出していた。けど今回ばかりは構っていられない。
「ユキ。ごめんね。大好きだよ。たくさん寂しい思いさせて、本当にごめんなさい」
「モモ……っん、」
言葉なんか積み重ねたって仕方ない。抱き寄せたユキの唇をふさいで、少し開いた隙間から舌を滑り込ませた。頭の中が燃えてるんじゃないかってほど熱くて理性はどこか飛んでいってしまうかもしれない。でも仕方ないし、構わない。ユキがそれを望んでくれているなら、恐ろしいけれど一緒にそれを望みたい。
思い切ってしまうと後は意外と簡単で、さほど意識することもなくというか、理性のたがが外れたかのごとくというか、乱れていた衣服を性急に脱がせながら(というより剥ぎ取りながら、ユキの肌に溺れていく。どこを吸い上げてもその体がふるえて甘い声を上げるから、熱は上がる一方だった。
「ァっ、……モモっ……んっ、あっ、く、んぅ」
声を上げながら体を跳ねさせるユキがあまりにも劣情を煽るものだから、どうにも直視できない。順序立ててなにかするという思考がなくなっていて、ユキが良さそうな反応をしたところをひたすら触って舐めて弄った。だんだん上がる声が甘く高くなって、息より音の方が多くなって、ユキの表情がとろとろに溶けていくのを見て、多分今オレ燃えてるんじゃないかな、という感覚になる。熱くてあつくて、炎の中にいるみたいだ。
「…ゆき……っ」
駄目だこりゃ、と思う。もうなんだかよくわからないから。今この腕の中にいる人のことがとにかく愛しくて、大好きで、全部自分のものにしたくて、それだけで思考回路が溢れてしまっている。
「すき、すき……ユキ、」
それでも。――それでも、あんなふうに一人で、寂しい思いをさせるよりは。
「ゆき、と」
こんな情けなくふわふわで、本能の炎に灼かれていても、上等なはずだから。
口をついてでた呼びかけに、ユキは嬉しそうに溶けた微笑みを浮かべた。
「…ぼく、もっ、すき…だ、……」
手を重ねてぎゅうっと握りしめる。お互いに、強く強く握り合ってその感触が嬉しくて仕方がない。大好きだって、愛してるって、言葉より強く伝わってくる。
「も…もせ、」
そうやって、笑ってくれてるほうがいい。一人で悲しい顔をしているよりずっとずっといい。
情けないことに本当にこのあたりで記憶はなくなっている。だいぶヤバい人間じゃないだろうか。でもいいんだ、ヤバい人間でもなんでも、宇宙で一番あいしているひとの心を填めることができるなら。

「大丈夫?」
「…ええ…こっちの台詞だけど……」
「ずっと怖がってたの、知ってるからね」
怖いのに、僕の寂しさを填めるために勇気を出してくれた。それが嬉しくて、泣きそうなくらいに幸せだったから。
少し驚いたような表情を見せるモモの顔をそっと、胸元に抱きしめる。
「ありがとう。愛してる、モモ」
ビクッと身を竦ませたけれど、モモはそのまま大人しく僕の腕の中に体を預けた。